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続き

「信田さんの新作では以前のストロークが消え、セーブされた筆の動きが、筆の向かう方角でなく、周囲ににじみのような広がりを作り出している。ストロークを基軸とした仕事の延長とも見えるが、新しい何かを迎え入れようとしているようにも感じる。」

これは2005年に信田俊郎と田中幸男の2人展を新潟絵屋で企画したとき、案内状(絵屋便)に書いた文の一部だが、「ストローク」という言葉で、信田と田中の組み合わせを思いついたことが語るように、2000年代初めまでの信田の絵の筆の動きは、かなり直線的で、スピード感があった。

しかし今回の近作に顔を近づけて見えてくるそれ(筆の動き)は、もっとくねくね、ぐるぐるしていて、とてもストロークとは言えない。こういう筆の運動がいつ頃から出てきたのか。
ともあれ、そのくねくねやぐるぐるが、画面全体に拡散していかないのは、それが画面に浮遊する方形内での動きにほぼとどまっているせいで、グリッドから抜け出て遊動を始めた方形は、このぐるぐるやくねくね(不定方向の蠕動的な筆の動き)の容れ物になっている。
容れ物に目を近づけると、くねくねやぐるぐるの、素早さの中にもさまざまな変化をはらんだ動きとともに、塗りつけられる色に複雑な濃淡が生じており、ことに「淡」の部分からは、下に塗られた色がはっきりと透けて見える。つまりクレーがかなりデジタルな手法で実現した地色と重ねられる色の同時鳴動が生じているのであって、それがグリッドならぬ遊動方形の、見かけの平坦を、色彩的な奥行き(対位法的効果)よって揺るがせ、絵全体の中で一所に固定されない、顫動する光の板のように感じさせる効果が生まれている。

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アルバースには「正方形賛歌」というシリーズがある。
アントン・エーレンツヴァイクは、形と色彩対比の関係を論じながこのシリーズに言及している(『芸術の隠された秩序』)。
それによれば、形は強くなればなるほど、色彩対比を抑制する。アルバースは正方形の画面内に大きさの違う正方形を入れ子状に配することで、形の主張(強さ)を最小限に抑え、微妙な色彩同士の対比効果を最大限に引き出そうとしたのだと、エーレンツヴァイクはいうのだが、信田の方形も、方形の画面中の方形であることや、もともとはグリッドという線状の形の隙間という「弱い形」であることと、「光の場所」と題された息の長いシリーズにおける色彩の探求には、浅からぬ相関関係があるのだと感じられる。
近作の幾つかの絵では方形の輪郭が揺れるような線でなぞられたり、輪郭が意図的にぼかされるような処理がなされているのも面白い。
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探求とは、到達点のない、あるいは無限遠にある道を行くことを言う。
色、形、筆触(筆の身振り)というシンプルと言えばシンプルなもの同士の関係(相互影響)という領野には、そんな無限遠が潜んでいるらしい。
一つ一つの絵は一つの全体でありながら、部分でもあるという信田の言葉は含蓄が深い。

たまたま、今読んでいる『縄文の思考』(小林達雄)の縄文時代のモニュメント(巨大遺構)についての説明が、そんな信田の制作を連想させる。

「…未完成というのは完成を待たずに中断した結果の、見た目に映るままの中途半端な状態を示すのではなく、幾世代にもわたる工事期間中において刻々と変化し続けてきた形態の静止状態を示すだけなのである。完成の途中経過でもないばかりか、未完成のいちいちは、それぞれが完成した未完成なのである。完成をただ目標とするまでの未だ到達していない未完成というのではなく、年々歳々工事が継続する限り、刻々と変化する形態そのものが厳然たる完成であり、その完成は、次の完成までの未完成である。その静止状態は、もはや不動の存在としてあることにおいて、その時点でのカタチが外見上において未整然であっても、決して意味なしとはしないのである。…」

(O)