湿った土地 【特別展示 mikkyoz011】
去年もよかったけれど、今年のそれは、個人的にぐっときた。



個人的に、というのは去年の後半、昭和46年刊の『低湿地』(籠瀬良明)という本を古書で求めて読みふけり、低湿地関連の記述をインターネットでずいぶん検索し、その後では河岡武春の『海の民』(昭和62年刊)なども読み、振り返ってみると、水をめぐって読書し、あれこれと思いをめぐらした数ヶ月があった。
その経験が、出だしから呼び覚まされた。


じりじりという音とともに現れる水面。
水たまりのある野道。
すすきの広がる原っぱ。
明らかに低湿地の気配が濃厚な映像が続き、急に疾駆する窓から見た新潟の夕空に切り替わり、その後は動く窓からの主に都市の映像(フロントグラスは雨で濡れている)と自然の映像が交錯していくのだが、全編に濃厚な水の気配が漂い続ける。


気配どころではない、川や川岸や雨や水たまりが次々と現れて、夜の人工照明が渾沌と入り乱れる映像を経て、最後は……
これから見る人もあるだろうから、はっきりとは書かないけれど、終わったあとに、(リピートするので)また灰色の壁に最初の水面が幻影のように現れる。

冬の暗夜の風のようにも、休みなく操業し続ける工場のうなり声のようにも聞える音が、水のイメージから遠いようで、映像の水の匂いを、なぜか際立たせるように感じられる。
水は、これまでのmikkyozの映像にも頻出してきた。
目新しいわけではないのだが…、今年のそれはすごくしみる。
これまでのものに比べると、コンピューター処理の技巧が見ていてあまり意識されないこととも関係があるのだろうか、などと考えるけれど、よくは分からない。
以下は映像の説明ではなく、この映像から呼び覚まされた私の感懐だが、新潟の土地=平野はかつては水であった。海であった時代があり、砂丘の堰に塞かれて無数の潟が広がった時があり、それらが広大な田園に変わり、次いでその田が埋められて、町に、都市になった時代があった。
その一連の経過を<水との闘い>と呼んだ人もあるけれど、本当に、ほんとうに、人は水と闘ってきたのだろうか、という疑問が、
このところずっと頭を離れないのだ。


これ以上書くと、mikkyozの映像+音から離れてしまいそうなのでやめておく。
けれど、水の映像絵巻の続く蔵の2階に身を置いていたら、なぜか、答えの容易には見つからないその疑問へ、力強く連れ返されるとともに、

それに立ち向かう勇気を、吹き込まれた。 (O)
特別展示 mikkyoz011 1月15日まで