夜の森の歩き方 【特別展示 ピーター・ミラー 白石ちえこ】

砂丘館は毎日夜9時まで開館している。

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閉館し、戸締まりをして勝手口を出ると、外は真っ暗だ。

ガーデンライトやとなりのマンションの灯、裏山の上の街灯などが、その周囲だけをほの明るくしている。
納屋の脇から駐車場に回る細道は足元が見えない。

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「夜の森は上を見て歩くのです」

と、知人のSさんが、愛読書だという上橋菜穂子の「守り人」シリーズの話をしながら言った。
Sさん自身、体験があるのだという。木々の切れ目で獣道が見える。いっぽう足元は目ではなく、足裏の感触で歩く。
それが、正しい夜の森の歩き方だ。

私たちは目を、視覚を、もっぱら頼りとして行動することに慣れてしまったけれど、森に生きる人間は、視覚ではない感覚を羅針盤にする――アボリジニの研究者でもある上橋菜穂子は、そのことをよく知っているのだ、とSさん。

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駐車場までの真っ暗な道は、怖いけれど、なぜか不思議なわくわく感もそこにはひそんでいる。
と、いつも感じてきた。
砂丘館に働くひそかな楽しみでもある。
その時刻の裏山の木々、蔵の屋根の向こうの枝葉などの不分明な影の美しさ。昼は遠い草や幹が、闇の中で、灯に濡れると、まるで目に触れそうな質感で迫ってくる。
雪の降った夜などは、闇の底の白の美しさに、ことにぞくぞくさせられたりもする。


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砂丘館で開催中のピーター・ミラーと白石ちえこの展示の、写真をベースに作られた平面を覗いていると、そんな夜の小冒険を思い出す。

写真は、カメラに「見えるもの」しか写すことはできないが、その写真を「銅版画」(ピーター)、「ぞうきんがけ」*(白石)というトンネルを潜らせることで、ふたりは見えるものの中に、見えないもの(人にしか見えないもの)を呼び戻そうとしているようだ。


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見る私が、見ることから遠ざかる――すると、森を歩く人の足裏の、あの違う感覚が目覚める。
勝手口から駐車場までの、旅が、ふたりの作品から、よみがえってくる。

写真銅版画(フォトグラビュール**)も、ぞうきんがけも、写真がまだみずみずしいものだった時代に行われた技法である。
そのような過去の手わざを、なぜあえて復活させ、用いるのだろう?

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カメラの語源はカメラオブスキューラ(暗い部屋/暗箱)。
今のデジタルカメラにもコンピュータにも、空間としての暗箱はすでにない、なくなった。ハイビジョンや液晶画面に、コンピュータのデスクトップに、氾濫する画像はますます鮮明に、くっきりしたものに尖っていく。
そのような時代に、私たちはいる。


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失われた暗箱の底に置き忘れられた、足裏の土や草の感触を――孤独に、夜の森の歩く人の感覚と感情を、
見ることが機械ではなく、人間の行為であることを、思い出そうとする人が、人たちが、ここにいる。

(O)



*ぞうきんがけ:ピクトリアリズム(絵のような写真をめざすこと)全盛期(1920-30年代)の日本で行われた技法。プリントした印画紙に油を引き、黒絵具を塗り、それを拭き取り諧調を調整する。その動作からつけられた名前という。

**フォトグラビュール(写真銅版画):写真草創期、画像を定着する技術がまだ未発達だったころ、ゼラチン膜を介して写真像を銅板に転写し、銅版画として刷る(印刷する)ことが広く行われた。近年この古典技法への関心が一部で高まり、ピーター・ミラーによれば現在、世界で50人ほどのフォトグラビュール家(?)がいるという。


特別展示 ピータ・ミラー 白石ちえこ
砂丘館 一階全室にて 10月30日(日)まで

同時期開催
ピーター・ミラー 白石ちえこ
新潟絵屋 10月30日(日)まで
by niigata-eya | 2016-10-27 00:21 | 砂丘館