2016.10①華雪展「生活」
彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか(略)
〈坂口安吾『白痴』(1946)〉
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「女」の字を崩すと「め」になる。
「め」と書けばと、ふとんを畳んでいたAがふいに言う。「女」は「め」なんでしょ?。その声は、どうしてと訊いたわたしへ問いかけるようにも、ただすようにも聞こえる。
「め」と書いてみる。繰り返し書き続けていると、「女」を意識しているのか、「女」と書きながら「め」と意識しているのか、きっとそのどちらもなのだろう、わからなくなってくる。『白痴』で描かれる女の「め」が浮かぶ。そのせいなのか、いつもAが見ているだろうわたしには見ることができない自分の「め」を想像してみた。そうして「女」だか「め」だか、そのどちらでもあるようなかたちを書きながら、『白痴』の中で女の髪の毛をなで続けている男の様をボンヤリと眼をあけて、けれども淡々とその「め」に写し続けている「女」を思う。
後半は華雪のテキスト。