●mikkyozの味【特別展示mikkyoz010】
砂丘館では5回目となる、mikkyozの特別展示が終了した。
新潟でこのような映像(と音)の作品を作っているひとたちがいる、では、ご紹介しましょう、と
冬の寒い時期に蔵で始めた展示は、翌年から毎年作られる新作を私たちスタッフもその場で初めてみせていただく形が恒例となり、
数年前からは定点観測の意味合いを帯びてきた。
昨年の展示。赤子の顔から人相がにゅっと飛び出す話を書いた。
そして今年。
会期終了後に話を聞くと、撮影機材を変えたり、上映をBlu-rayに変えたり、といった変化があったそうだ。
けれど、それ以上に顕著なのは見た人の反応なのである!
決して来場者数は多くないものの、毎回mikkyozを見ているひとからは、特に大きな反応があった。
それほどに、映像も、音も、洗練されていた。
写真や映像のむずかしいところは、日常的な題材を取り上げると、他のひととの差異が見えにくい、というところにあると思う。
そこで大事になってくるのが、作り手個人の視点。
目の前に広がる風景から何を抽出し、作品化するにあたってどう味付けするのか…それを昨年は料理に例えて書いたのだが、
今回のmikkyozの研ぎ澄まされた表現をみたら、ふと、年末に長々とテレビで見た贅沢なお寿司の番組を思い出したのであった。
薄暗いお店のあかりの灯るなか、
白木のカウンターのうえにはつややかに寿司がのっている。
米と魚介。
見慣れた食材なのに、ちがってみえる。
何がちがうのか。
おそろしく手間暇かけた下準備の映像があいまに映し出される。
なぜにそんなに下ごしらえが必要なのか。
想像するに、それは雑味を取り除き、素材の「持ち「味」」を引き出すため。
けれどその技や手間は表立っては見えない。
ただ凛と美しく、ほかの解釈を一切受け付けない、輝く寿司が、そこに佇むばかりだ。
技も手間も表に見えすぎるうちは、強い表現にならない。
一昨年までのmikkyozもどこか、表したいことのなかに技が見えすぎるもどかしさがあったが、
5回目の今回、彼らは若くして熟達した板前のようであった!
それまでにあった雑味が消え、ありふれた素材の中からもきりりと、純粋な味を引き出している。
そしてBGM的な位置で解釈されることの多い音。
leさんのつくる音(音響)は音楽やリズムにとらわれない、
たとえば飛行機が遠くに飛んでゆく時の音や、鳥の羽ばたきや、冬の寒い夜に風に運ばれてくる海鳴り、
たとえばそんな、言葉では説明できないような音の粒を、耳の中で鳴る振動を、
ぐっと鮮やかに描き出していた。
そして、余分な味をつけたすのでなく、そぎ落とすことでうまれた遠藤さんの映像。
鮮度高く極限まで極められたこの二つが、拮抗する空間である地点を生む。
そこにmikkyozの味がある。
それを体感することが、mikkyozを見るということだったのだなあと、
この5年でわたしの味覚も鍛えられたのか、そんなことを思ったのでした。
(小)
特別展示mikkyoz
【会期は終了しました】2016.1月6日~17日
会場:砂丘館ギャラリー(蔵)