H・P・ラブクラフト「インスマウスの影」より
2023年夏、砂丘館で公開されたmikkyozの新作「mikkyoz017」を見て、聴きながら、私が思い出したのはH・P・ラブクラフトの小説「インスマウスの影」の主人公が、インスマウスという小さな町を訪ねて体験した怖しい出来事、というより、その出来事が<発覚>するまでの半日、「いったいどういう外国人の血が流れているのか」見当のつかない風体の男ジョー・サージェントが運転するおんぼろバスで湿地に囲まれた河口の町に到着してから、日が暮れるまで、その町の各所を歩いたとき、町が彼に示した、どこか身の毛のよだつような「よそよそしさ」の記憶だった。
「…街には、生きものの影がまったくなかったので、インスマウスには犬も猫もいないのかしらと思ったものだ。もう一つわたしが首をかしげ、気味悪く思ったのは、特に充分手入れのできた家でさえ、三階と屋根裏部屋の窓がいずれも堅く閉まっているということであった。このよそよそしい、死の影の差すしずまりかえった町にあっては、人目を忍ぶ、ひそやかな空気が行きわたっているらしく、わたしは自分の一挙一動が、どこかわからぬもの蔭から、あのずるそうな、じっと見開いたままにらむような目で、監視されているような、どうしてもそんな感じから逃れられなかった。」
人はわずかにいるのだが、特殊な法衣を身にまとった牧師も、一人ぽつねんとしていたり、二、三人連れだった若者も、主人公に親しさを感じさせない。
mikkyoz017は芦か真菰と思われる尖った葉がそよぐ中に一輪咲く菖蒲の花の映像にはじまり、暗転のあと、上方に勢いよく吐き出される二筋(かたまり)の煙が現れる。その美しさに、はっとさせられながら、はやくも不安が寄せてくるのは、潮のようにせり上がってくるleの音のせいなのか、それとも、煙の後ろにちらりと覗いては、隠れる、黒い影のためなのか。インスマウスを訪ねる前晩に主人公がその町から流出したと言われる不思議な冠を、歴史協会の陳列棚で見たときに感じた「ちょっと説明しかねるような不安」にぎょっとし、嫌悪と同時に、魅惑を受け取ったように、mikkyoz映像と音から私は斥けられながら、引きこまれていく。
相反する感覚は、続く映像と音の中で深まる。引力と斥力に同時に働きかけられる緊張感は、「インスマウスの影」に限らない、ラブクラフトの小説にかつて読み耽ったときに、私がいつも陥った感覚でもあった。
mikkyozの新作に、今回はめずらしく短い言葉が添えられた。
1945年8月14日午後10時半頃から翌15日の未明にかけて、
秋田県秋田市土崎は約4時間にわたり空襲を受けた。
ポツダム宣言受託によって日本が無条件降伏をする半日前だった。
日本で最後の空襲とされている。
78年後の土崎。
空襲から逃れようとした人々が押し寄せた
光沼には1本の菖蒲が咲いていた。
新潟、新発田など、映像作者の遠藤や私の生活と重なり合うエリアで撮られてきた映像が、今回はどこか違う気配を放つのは、土崎という場所のせいらしい。秋田に遠藤は違う目的で行き、そこで知った事実に誘引されるように土崎に、入りこんで、カメラを動かすことになったという。
「インスマウスの影」の主人公も、アーカム(やはりラブクラフトの小説に登場する架空の都市)へ行こうとして汽車賃の高さに文句をつけた出札係からインスマウス経由で行くバスルートを教えられ、そこで聞かされた話に興味を抱いてインスマウスへ向かうことになる。
主人公は「極端に荒廃した地方都市の見本」たるインスマウスの街路という街路を「念入りに観察」しながら、徹底的に歩き回る。ラブクラフトの筆は、インスマウスというアメリカの架空の町の、各所で朽ち果てながらも様々な歴史を刻んできた街並みが、眼前に実在するかのように描き出す。
遠藤も初めて足を踏み入れた土崎の家や、街路や、沼や、巨大なガラス張りの建築や、工場や、そして巨大な風力発電機などの前にカメラを置いて、念入りにフレーミングし、作動させる。
「インスマウスの影」の真の怖しさは、海底人による町の占拠というホラーな虚構以上に、実はこの荒廃した(あるいは開かれていた窓という窓を釘で打ち、閉ざした)町の実在=今を、まざまざと読者の眼前に現出させるラブクラフトの筆の描写力から立ち上がってくる。
mikkyoz017にあらわれる巨大な風力発電機は、白く、シンプルで、美しい。そして小説の主人公が見入った冠のように「ちょっと説明しかねるような不安」をかきたてる。
その不安は、映像の後半であらわれる、風車の「影」が木立を規則的に横切っていく映像において恐怖へと変容する。
沼や巨木やガラスから刺し注ぐ日光などの「自然」もまた、異界の側から滲出してきているように、交差点を行き違う自動車も、トラックも、巨大な温室のような場所の人影も、インスマウスの町で見かける人影のように「異」の側に在るように感じられていたことを、その影にサーチライトのように照射され、ぞっとする。
インスマウスは、歴史を刻んだ町が、その歴史とは異質の何かに占拠されようとしていた町だった。
「空襲から逃れようとした人々が押し寄せた光沼」の映像に始まり、終わるmikkyoz017が見つめる土崎も、その歴史(終戦の前日に受けた空襲という出来事)とは異質の何かに占拠され、その歴史自体を隠蔽しようとしている。
だが何に?
煙を吐き出す工場も、サイディング(新建材)で囲われた家も、風力発電機も、ガラス張りの塔やアトリウムも、みな現代の私たちの町にもあるようなものだ。
何か、とは「異なもの」になった、なってしまった私たち自身、あるいは現代そのもの、ではないか。
「インスマウスの影」の主人公がおびただしい海底人の群れに追われ、町の裏通りや街路をかろうじてすりぬけ、廃止された線路をたどって町を抜け出したあと、申し立てを受けた連邦政府によって、町は探索され、「おびただしい数の家が軒並みに、念入りに焼き払われ、ダイナマイトで爆破される」。インスマウスでは海底人と人間の混血が進み、かつての住民の末裔たちの体も海底人に変わろうとしていた。
その後主人公は、自分の家系を調べるうちに、混血が始まった時期のインスマウスの人間が自分の曽祖母であったことを知り、ショックを受ける。
そして日がたつにつれ、自分の容貌が変化し始めていることに気づく。
ある朝、鏡を見ると映っていたのはまぎれもない「インスマウス面」だった。異なものは彼自身であった。
mikkyoz017に私が感じた恐怖は、その鏡に向き合った「インスマウスの影」の主人公を襲ったそれに似ていた。
人が「不気味なもの」を感じるのは、慣れ親しんだものが、抑圧され、忘れられたのち、影のように姿をあらわすときだと書いたのはフロイトである。
慣れ親しんだ「私たちの町」が、慣れ親しむことで抑圧され、無意識化し、mikkyozの映像と音の中で不気味なものとなって姿をあらわしてくる…
この映像と音は、美しい不穏を通じて、そんな私の妄想も包摂するような何事かを語りかけているようだ。
(O)