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昨年の暮れ、華雪さんの「日暦」を手に入れた。



たたずむ日_e0138627_07532735.jpg

それ以前から気にはなっていたのだが、どうせなら年の初めからという気分だった。

日暦のいいところは、自動的に、知らない間に、日々が過ぎていかないところだ。

暦を繰ることを忘れたら、ずっとその日にとどまっている。

矢のように時間が過ぎてゆき、デジタル時計や電波時計のように狂いなく機械的に時に流されるより、

淀んで、時に立ち止まった方がいいのではないか・・・

10月の個展のタイトルは「Stand Still」。

おまえ、本当に見てるのか? そんな自戒の意味も込めて。


*新潟絵屋で秋に個展を開催される安藤喜治さんが、ご自身のフェイスブックに書かれたもの。

 ご了解をいただいて転載しました。


日暦は茶の間に置いている。
この日付の景色が、昨年もすきだと思った。
今年の七月七日は日曜日。
いちにち家でのんびり過ごした。

寝る前にいつも日付をつぎの日にする。
また来年、七月七日。
七月七日_e0138627_22075279.jpeg
(I)

老母と二人、実家で暮らし始めて3年になる。
古い日本家屋の家はいわゆる実家テイストであふれていて
妙にモノが多く、部屋や台所の四隅が脈略なく雑然としている。
なんでここにこれがあるのよと時折ブツブツ文句を言いはするけれど、
実は内心、どこかで実家的安心感を感じていることも確かなのだった。

そういう実家の玄関の一角に日暦を置いている。
新潟漆器の丸山商店ご親族から譲り受けた漆の二重棚を置いて
その上にシンプルに日暦を置いていたのだが、
はたと気がついたらいつの間にかランチョンマットが敷物にされ、
私が持ち込んだあれこれが母の手によって脈略なくポンポンと飾られていた。

ううう。実家だ。

日暦を見て「これはなんだ?」と最初は訝っていた母だが、
いまやせっせと毎日めくっている。そして、
「今日クリーニング屋さんが日暦を見てね、『これは何ですか?』と聞いてきたんだよ」
「回覧板を持ってきたお隣の人から、『素敵ねえ』って褒められた」
「八百屋さんが配達に来て・・・(以下略)」
訪ねてきた人たちの反応をいちいち私に報告する。

実家の玄関_e0138627_13042422.jpg


玄関を開けた正面に置いてあるので、
ちょっとしたアイストップになっているのだろう。
嬉しそうな母を見て、喉元まで出かかった小言を呑み込んだ。
娘、まだまだ修行が足りねえな。

おしゃれとは程遠い環境ながら、
うちの日暦は愛されております。

(U)

同居人とふたり暮らしですが、会うのは夜と朝の一瞬という日がほとんど。
そのふたりが、ほぼ毎朝行く場所に、
日暦を置いています。

日付が変わっていると、なんとなく安堵し、まれに前日の日付になったままだと、忙しいのかも…と感じたり。

朝の風景_e0138627_08591562.jpg

見ていて見えないもうひとりを感じる場所になっています。



(O)





「信田さんの新作では以前のストロークが消え、セーブされた筆の動きが、筆の向かう方角でなく、周囲ににじみのような広がりを作り出している。ストロークを基軸とした仕事の延長とも見えるが、新しい何かを迎え入れようとしているようにも感じる。」

これは2005年に信田俊郎と田中幸男の2人展を新潟絵屋で企画したとき、案内状(絵屋便)に書いた文の一部だが、「ストローク」という言葉で、信田と田中の組み合わせを思いついたことが語るように、2000年代初めまでの信田の絵の筆の動きは、かなり直線的で、スピード感があった。

しかし今回の近作に顔を近づけて見えてくるそれ(筆の動き)は、もっとくねくね、ぐるぐるしていて、とてもストロークとは言えない。こういう筆の運動がいつ頃から出てきたのか。
ともあれ、そのくねくねやぐるぐるが、画面全体に拡散していかないのは、それが画面に浮遊する方形内での動きにほぼとどまっているせいで、グリッドから抜け出て遊動を始めた方形は、このぐるぐるやくねくね(不定方向の蠕動的な筆の動き)の容れ物になっている。
容れ物に目を近づけると、くねくねやぐるぐるの、素早さの中にもさまざまな変化をはらんだ動きとともに、塗りつけられる色に複雑な濃淡が生じており、ことに「淡」の部分からは、下に塗られた色がはっきりと透けて見える。つまりクレーがかなりデジタルな手法で実現した地色と重ねられる色の同時鳴動が生じているのであって、それがグリッドならぬ遊動方形の、見かけの平坦を、色彩的な奥行き(対位法的効果)よって揺るがせ、絵全体の中で一所に固定されない、顫動する光の板のように感じさせる効果が生まれている。

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アルバースには「正方形賛歌」というシリーズがある。
アントン・エーレンツヴァイクは、形と色彩対比の関係を論じながこのシリーズに言及している(『芸術の隠された秩序』)。
それによれば、形は強くなればなるほど、色彩対比を抑制する。アルバースは正方形の画面内に大きさの違う正方形を入れ子状に配することで、形の主張(強さ)を最小限に抑え、微妙な色彩同士の対比効果を最大限に引き出そうとしたのだと、エーレンツヴァイクはいうのだが、信田の方形も、方形の画面中の方形であることや、もともとはグリッドという線状の形の隙間という「弱い形」であることと、「光の場所」と題された息の長いシリーズにおける色彩の探求には、浅からぬ相関関係があるのだと感じられる。
近作の幾つかの絵では方形の輪郭が揺れるような線でなぞられたり、輪郭が意図的にぼかされるような処理がなされているのも面白い。
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探求とは、到達点のない、あるいは無限遠にある道を行くことを言う。
色、形、筆触(筆の身振り)というシンプルと言えばシンプルなもの同士の関係(相互影響)という領野には、そんな無限遠が潜んでいるらしい。
一つ一つの絵は一つの全体でありながら、部分でもあるという信田の言葉は含蓄が深い。

たまたま、今読んでいる『縄文の思考』(小林達雄)の縄文時代のモニュメント(巨大遺構)についての説明が、そんな信田の制作を連想させる。

「…未完成というのは完成を待たずに中断した結果の、見た目に映るままの中途半端な状態を示すのではなく、幾世代にもわたる工事期間中において刻々と変化し続けてきた形態の静止状態を示すだけなのである。完成の途中経過でもないばかりか、未完成のいちいちは、それぞれが完成した未完成なのである。完成をただ目標とするまでの未だ到達していない未完成というのではなく、年々歳々工事が継続する限り、刻々と変化する形態そのものが厳然たる完成であり、その完成は、次の完成までの未完成である。その静止状態は、もはや不動の存在としてあることにおいて、その時点でのカタチが外見上において未整然であっても、決して意味なしとはしないのである。…」

(O)