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今年、新潟絵屋は新しいリーフレットを作りました。
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ここにどうしても入れたかった写真が、見開きのこの一枚。
絵を見ている姿からにじみ出ているものがありました。
今日はお母さんとご一緒に、
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ゆっくり、見て下さいました。
絵を見るひとがつくる景色、毎日いろいろ。
ピーター・ミラー 白石ちえこ展の絵屋にて。
(I)

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10/22-30

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通りからも見える看板は、作家が書くならわし。
予告しないことも通例で展示作業の最後にこれを書いてもらう。

今回は二人展。
字もふたりが書いた。

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写真銅版画のピーター・ミラー
ぞうきんがけの白石ちえこ
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白石さんの作品を前に、知人のSさんが話し始めた。

東京生まれのとある人が新潟から大阪へ向かい、そこから船に乗って上海へ渡り、ユーラシア大陸をユーゴスラビアまで約2年旅して、いまは新潟にいる。その人がなぜ旅に出たのかよりも、なぜ旅から帰ってきたのかを聞いてみたいと。Sさんは山登りがすきで、とりわけひとりで登るのが好ましい。穂高から300m滑落したこともあり、手術し、リハビリして、その後はスキューバーダイビングを始めたこと、それもやはりひとりで潜るのがすきなこと、深く潜るほど視界が暗くなっていくことをお話しされた。気圧の違いで、深い程酸素ボンベは減りが早いという。日の光は潜るにつれ遠く、ますますひとりになる。素人は30mよりも深く潜ってはいけないのに、もっと行ってみたくなる。それを振り払い、光の差す方へ引き返し、いまにここにいるという話を。
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10/23に砂丘館で開催したギャラリートークでは、「写真銅版画」「ぞうきんがけ」の技法解説を交えながら、それに出会うまでのことをそれぞれに話してもらい、大倉がふたりに興味を持った根本のところに迫っていった。トークが進むにつれ、ふたりの共通点が見つかり、それがなにか鍵のようにも思われた。個展を開催するたびに、訪れた方が自分の体験を話されるという点、お互いに旅好きであること。実のところ、ふたりは展示の日が初対面で、作品もお互いに知らなかったのだ。
ピーターさんは、先に新潟をあとにした。工房は鎌倉にあるけれど、高知へと向かった。現在高知県でも展覧会をされているのだ。今日はピーターさんから毎日新聞の記事が届いた。メールには、「作品は、住宅と事務所に飾ると嬉しくなる。」とあった。
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10/23砂丘館にて 中央:ピーター・ミラー 右:白石ちえこ

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by niigata-eya | 2016-10-27 13:27 | 今月の土壁
砂丘館は毎日夜9時まで開館している。

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閉館し、戸締まりをして勝手口を出ると、外は真っ暗だ。

ガーデンライトやとなりのマンションの灯、裏山の上の街灯などが、その周囲だけをほの明るくしている。
納屋の脇から駐車場に回る細道は足元が見えない。

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「夜の森は上を見て歩くのです」

と、知人のSさんが、愛読書だという上橋菜穂子の「守り人」シリーズの話をしながら言った。
Sさん自身、体験があるのだという。木々の切れ目で獣道が見える。いっぽう足元は目ではなく、足裏の感触で歩く。
それが、正しい夜の森の歩き方だ。

私たちは目を、視覚を、もっぱら頼りとして行動することに慣れてしまったけれど、森に生きる人間は、視覚ではない感覚を羅針盤にする――アボリジニの研究者でもある上橋菜穂子は、そのことをよく知っているのだ、とSさん。

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駐車場までの真っ暗な道は、怖いけれど、なぜか不思議なわくわく感もそこにはひそんでいる。
と、いつも感じてきた。
砂丘館に働くひそかな楽しみでもある。
その時刻の裏山の木々、蔵の屋根の向こうの枝葉などの不分明な影の美しさ。昼は遠い草や幹が、闇の中で、灯に濡れると、まるで目に触れそうな質感で迫ってくる。
雪の降った夜などは、闇の底の白の美しさに、ことにぞくぞくさせられたりもする。


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砂丘館で開催中のピーター・ミラーと白石ちえこの展示の、写真をベースに作られた平面を覗いていると、そんな夜の小冒険を思い出す。

写真は、カメラに「見えるもの」しか写すことはできないが、その写真を「銅版画」(ピーター)、「ぞうきんがけ」*(白石)というトンネルを潜らせることで、ふたりは見えるものの中に、見えないもの(人にしか見えないもの)を呼び戻そうとしているようだ。


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見る私が、見ることから遠ざかる――すると、森を歩く人の足裏の、あの違う感覚が目覚める。
勝手口から駐車場までの、旅が、ふたりの作品から、よみがえってくる。

写真銅版画(フォトグラビュール**)も、ぞうきんがけも、写真がまだみずみずしいものだった時代に行われた技法である。
そのような過去の手わざを、なぜあえて復活させ、用いるのだろう?

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カメラの語源はカメラオブスキューラ(暗い部屋/暗箱)。
今のデジタルカメラにもコンピュータにも、空間としての暗箱はすでにない、なくなった。ハイビジョンや液晶画面に、コンピュータのデスクトップに、氾濫する画像はますます鮮明に、くっきりしたものに尖っていく。
そのような時代に、私たちはいる。


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失われた暗箱の底に置き忘れられた、足裏の土や草の感触を――孤独に、夜の森の歩く人の感覚と感情を、
見ることが機械ではなく、人間の行為であることを、思い出そうとする人が、人たちが、ここにいる。

(O)



*ぞうきんがけ:ピクトリアリズム(絵のような写真をめざすこと)全盛期(1920-30年代)の日本で行われた技法。プリントした印画紙に油を引き、黒絵具を塗り、それを拭き取り諧調を調整する。その動作からつけられた名前という。

**フォトグラビュール(写真銅版画):写真草創期、画像を定着する技術がまだ未発達だったころ、ゼラチン膜を介して写真像を銅板に転写し、銅版画として刷る(印刷する)ことが広く行われた。近年この古典技法への関心が一部で高まり、ピーター・ミラーによれば現在、世界で50人ほどのフォトグラビュール家(?)がいるという。


特別展示 ピータ・ミラー 白石ちえこ
砂丘館 一階全室にて 10月30日(日)まで

同時期開催
ピーター・ミラー 白石ちえこ
新潟絵屋 10月30日(日)まで
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2016.10.12-10

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▲左・1978年テンペラ/キャンバス 右・1982年鉛筆/紙 
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新作は6点。年々寡作になっている傾向。
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「陽光」2009年

新作と一緒に旧作を並べてみたら、合いました。





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by niigata-eya | 2016-10-12 19:26 | 今月の土壁
米蔵の最初の部屋。
風が書の鳥を揺らしました。
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下の写真が、まん中の部屋。
10/10のライブパフォーマンスは、この部屋からはじまりました。
観客57人に囲まれて、華雪が書き、部屋を移動しながら、堀川久子踊ルが展開。

下から上に、書いた順に展示していました。
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一番奥の部屋。
この部屋は1羽の鳥。
自然光が入るこの部屋は、時間帯により様子を変えました。
入ったきり帰らない、長く佇む人が多い部屋でした。
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10/6〜10に開催した本展。
曇った日、青空が見えた日、雨の日、風が吹いた日、いろいろでした。
展示室は刻々と様子を変え、訪れる方はめいめい巡り合わせのコンディションでご覧いただくこととなりました。ありがたいことにリピーターの方もいらっしゃいました。
米蔵の外では鳥が日常生活を送っていて、展示をご覧になられたお客様から、「BGMいいですね」と言われたり。

「堀川久子踊ル」(10/10 18時30分〜)の入場後、白鳥の声が聞こえました。
弁天潟に帰ってきたのか、どこかへ帰って行く途中に聞こえてきたものだったのか。

最終日の10/10にはツバメコーヒーさんが出店して、賑わいをもたらしてくださいました。
とても賑わって、写真を撮れたのが「堀川久子踊ル」開演後。
祭りのあとのような雰囲気の写真になりました...。(I)
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10/6〜10
新潟絵屋が認定NPO法人に認定された記念の展覧会です。
今回は、<寄付がつくる展覧会>を提案し、現在約40人と3団体様にお応えいただきました。
遠方の方々からもご支援いただいており厚く御礼申し上げます。

本日は最終日前日。
そろそろ日が暮れようとしています。
20時まで。
展示室は刻々と変化し、佇んでいるといろいろに想像が巡ります。
(I)

*10/9.10は作家が米蔵に在廊予定
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10/2-10
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「入泥」

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李箱「運動」より
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「女」「昼の時計は明るい」「顔」
「心」

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「土」

会場坂口安吾『白痴』や李箱、尾形亀之助の詩の引用があります。

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彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか(略)


〈坂口安吾『白痴』(1946)〉


「女」の字を崩すと「め」になる。

「め」と書けばと、ふとんを畳んでいたAがふいに言う。「女」は「め」なんでしょ?。その声は、どうしてと訊いたわたしへ問いかけるようにも、ただすようにも聞こえる。


「め」と書いてみる。繰り返し書き続けていると、「女」を意識しているのか、「女」と書きながら「め」と意識しているのか、きっとそのどちらもなのだろう、わからなくなってくる。『白痴』で描かれる女の「め」が浮かぶ。そのせいなのか、いつもAが見ているだろうわたしには見ることができない自分の「め」を想像してみた。そうして「女」だか「め」だか、そのどちらでもあるようなかたちを書きながら、『白痴』の中で女の髪の毛をなで続けている男の様をボンヤリと眼をあけて、けれども淡々とその「め」に写し続けている「女」を思う。


後半は華雪のテキスト。

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「隻手」

撮影:風間忠雄






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by niigata-eya | 2016-10-09 16:27 | 今月の土壁