病み上がりの効能 【堀内康司展】
それはどの絵にも言えることかもしれないが、
堀内康司の絵の真の魅力は、情報や画像(イメージ)を“流す”ようにしか見ることのできない人には、
けっして理解することができないだろう。
展示作業の日、昨年の3倍という猛烈な飛散量のおかげで、O氏もわたしも花粉症真っ只中。
片時もティッシュケースを手放せないせつないだるさの中、堀内康司の絵を飾った。
心身が弱っているときは、絵がよく見える。
きりきりとした深い孤独。
切実さ。
思うように体も動かせず、人並みのこともできないから、
動かない体のなかで生身のこころだけが、ぜいぜいと、かろうじて生きているような感じで、
手に取るように自分のいのちやこころの形が見える。
そんな状態で絵の前に立つと、
描いた人と見る私、ひとりの心とひとりの心が向かい合う。
スポットライトを当てられた「無題〈花〉」をはじめて見たとき、
キャンバスにつきつけられたナイフの跡が浮かび上がって、
「リストカットのようですね」という言葉が思わず口からこぼれた。
堀内の線はこの線だったのか。
リストカットは生きるためにするのだという。
自死するためではなく、生きていることを実感するために。
流れていく血と痛む身体のあることを実感するために。
堀内康司はとても明るい人だったのだという。
画集にうつる写真にも親を亡くした寂寞さよりも、開放感のようなものがひょうきんな笑顔ににじむ。
けれど堀内康司が絵の中に描きつけた線は生きていくための線。
わが身に受けた孤独と苦しみを、吐き出し、押しのけ、生き抜くために絵を描いた。描かずにはいられなかった。
そんなように、思わずにはいられない。
30代はじめで筆を折った堀内康司。
周りのひとには見せなかった想いを、絵だけは知っている。
病み上がりの身体にはその想いががよく伝わる。
―「絵は初々しい境地が描かせるものか?」
孤独すら、大量に流れる情報で処理される時代に、
見る人の眼にその絵はどのように映るだろう?
(小)
忘れてはならないひとがいます
堀内康司展
2015.4月17日(金)~5月24日(日)
9時~21時 休館日:月曜日(5/4は開館)、4/30、5/7・8
会場:▶
砂丘館ギャラリー(蔵)+1階全室
観覧無料
発売中!
『堀内康司の遺したもの』(求龍堂)3,240円
2011年の没後、知人らの尽力により刊行された遺作画集。
会場で手に取ってご覧下さい。