いま、ここに、あること 【有元伸也写真展】
印象に残ったことがあった。
有元さんは学生時代、日本各地を訪れ、風景、ポートレートを撮った。
動機を聞いた。日本に生まれて、日本をよく知らないという気持ちがあったとのこと。
有元さんより14歳年上の私にも、そういえば、同じような気持ちがあった。
10代に奈良に仏像詣でをしたのも、20代で生まれた新潟を旅したのも、元をただせば、その気持ちからだった気がする。
大阪の写真学校を出て、有元さんはインドに行く。そこで出会ったチベット人の表情に魅了されたのが、写真集『西藏(チベット)より肖像』の出発点になった。イエスとノーが明快なアーリア系の人とは違う、微妙な「はにかみ」を浮かべる人間にふしぎな近さを感じたという。
和室に展示された写真のチベットの人々を見ていて、この人たちには、自分の国を知らないという感情はないだろうと感じた。
自分のいる、いま、ここが、自分の国、世界だと、威厳と気品を漂わせる、それらの美しい顔々が語っている。
写真集は評判を呼び、受賞もした。
けれども、有元さんは、その後10年チベットに足を踏み入れなかった。
かわりに東京に行き、住んだ。新宿の街を毎日毎日歩きに、歩いて、カメラを向けるべき人を探した。まるで狩人のように。人であふれる街を半月歩いても、一人も出会えない時もあったという。
蔵ではその新宿と、東京都の山奥(?)である奥多摩で撮影された2000年以後の写真(主にポートレート)を展示している。
彼らとチベットの人々には、違いと、共通点がある。
ariphoto(有元の写真)の新宿人たちは、チベット人の知らない不安を、大都市の、チベットとは質の違う危険をひそませた町の牙を知っている。そのような不安に包囲され、脅かされながらも、彼らもやはり写真のなかでいま、ここに、自分の国に、場所にいる。
そこが同じだ。
自分がいるいま、ここがどこなのか知らないという感覚の病から、確実に離れた場所に、生きている。
人が人であることの尊厳とはなにか。それはどこから生まれるのか。
考えさせられる。
(O)
有元伸也写真展
ariphoto in niigata 2015
2015年2月17日-3月22日 砂丘館ギャラリー(藏)+一階全室